第216首 みんなの全部を私に詰めたよ

綿谷家は三人でホテルの一室に泊まっている。父が呟く。

「おれは… 名人の子供やから 末は名人やって言われて 続けられるほど強くなかっただけや 新は強いな」

新は考える。

強い? 強くないよ 父ちゃん 寝られる気がせん イメージしてきたのは 明日のことばっかりで 現実味がない

ホテルの廊下をうろうろしていると、焦りまくっている千早と出会った。新も成り行きで千早と共に、花野と田丸の客室に入って事情を知る。

千早父がスーツケースを送り間違えて、千早の着物が入った荷物が佐賀に、千歳の荷物が滋賀に届いているのだった。千歳が千早の荷物を届けるべく、佐賀から車、夜行バス、新幹線などを乗り継いで、千早の元に届けてくれることになった。

「8時すぎには届けるから!! それで間に合う? 千早」
「間に合う 間に合うよ お姉ちゃん」
「じゃあ 早くねろ!!」

もし姉が間に合わなくても、花野と田丸の二人分の着物があるからと勇気付けられ、千早は安堵。

「よかった… ほんと よかった… 死ぬかと思った なんとか眠れそう……」

新は自らの服で手の汗を拭き、千早に差し出して握手。

「おれもよく眠れそう おやすみ」

新は部屋に戻り、母と父に抱き付く。千早のことを思い浮べながら。

抱きしめたい 抱きしめたい 抱きしめても大丈夫な人になりたい

周防がホテルのラウンジで寛いでいると、山城読手が通り掛かる。「いにしへの」の和歌をイメージしたカクテルを薦めつつ、山城の好きな桜の話になった。

「どうしてかしらね どんな娯楽でもなく 私には桜なの 桜がたくさん咲きほこってるその下を 美しいと思って歩いてるときだけ 本当の息ができるのよ」

山城は周防に訊ねる。

「名人を辞めたら どこに行くの」

その姿が周防には兼子と重なって見えた。

いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日 九重ににほひぬるかな

一夜明けて、近江神宮は雪景色。約束の午前八時だが、千歳はまだ大阪と京都の間の電車内。千早は後輩達の着物をどうにか着こなし、大江がくれた足袋、貸り物のコートで出陣。西田のアドバイスで、バナナとゼリーも用意してある。

急遽呼ばれた九頭竜読手も到着。大江と駒野が作ってくれた音声データが、千早の頭に蘇る。

試合前の参拝には、楼門を見ることなく、社務所を通って向かった。その途中、千早は参拝する太一を見た。幻の太一が微笑んでいる。千早は一年生の時に皆揃って参拝した時の情景を思い、涙を浮かべる。

お姉ちゃんもお父さんも 原田先生も坪口さんも間に合わない かなちゃんも机くんも 肉まんくんも 太一もいない だけど

おれらの全部で君を守るよ、と言っているようで――

みんなの全部を私に詰めたよ 見ていて 私の今日を

memo

試合前日に大きなトラブルに見舞われる千早。なるほど、大盤係を二人に頼んだのが、こんな形で生きようとは。仲違いしていたのも吹っ飛んだように、千早のために必死な千歳。車窓に映る表情がたまらなく格好良い。一方、千早父の使えなさにびっくり。

そもそも千早も勉強道具は厳選し、着物と一回分の着替えくらいは手荷物にすべきだった。例えば野球選手なら、生命線のグラブを飛行機の預け荷物に入れたりしないと聞く。て言うか、宅配使う程の荷物量じゃなかったよね、二人共。千早が腕を保護するためにキャリーケースを引きたくないのなら、母が二人分の荷物を詰めれば済む。

九頭竜さんが登場。第214首で千早は当初決まっていた読手三人と、気分転換に九頭竜の読みも聴いていたと話している。九頭竜読手については、第175首の周防と若宮のテレビ出演時、最近は表舞台で読んでいないとの情報が出ていた。第192首の猪熊によれば、名人戦で最後に読んだのがちょうど十年前とのこと。詩暢そして新も、癖の強い九頭竜の読みは知らなさそうだ。但し、過去の描写では、詩暢は山城読手を「やっかい」と表現していたが、苦にしている風ではなかった。新が読手の感想を述べている場面は思い付かない。読手によって、苦戦するか否か。

決戦を前にして再会した千早と新。新から千早の肩に触れたり、握手を求めたり、ついには抱きしめたいとまで言い始めた。その千早は大一番を前に、太一の幻を見る。これまでは太一と千早の親し気な描写があった後に、新が美味しいところを浚って行くのが定番だったのに、流れが逆になりつつある。部の皆にいろいろ世話になったが、千早は太一に何をして貰いたいのかはまだ明確にされていない。